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10月16日〜10月10日(毎日スキルアップ通信で紹介)


名将に学ぶ人間学

           童門冬二 三笠書房(2006.9.30)


 ホーソン工場での実験結果は、「人間はなぜ働くか?」という問に対して、「人はなぜ生きるのか?」という究極的な解を返したこと、その後のリーダーシップ論や組織の人間関係論に大きな影響を与えた。

 これからの中間管理職が、留意しなければならないことは、部下の持っている欲望の充足だ。組織内における部下一人ひとりの人格の尊重と、願望の実現である。

 部下に対する人格侮辱がしこりになり、部下から自分はもちろん、会社まで潰された例はよくある。織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変がその代表例であろう。


 豊臣秀吉は、現場作業員のモチベーションを上げるスキルは一流であった。
 秀吉がまだ身分の低い時代、清洲城の塀が台風で壊れた。塀の修復が一向に進まないのを見かねて、秀吉は担当の奉行から仕事を取り上げた。当然、担当から外された奉行は怒った。秀吉は工事人を10組に分け、工事箇所を10等分させた。一番最初に完成した組には信長様から賞金が出るとおふれを出す。工事は明日からということで酒盛りをさせた。酒盛りの最中、例の担当から外された奉行がやってきて、「おまえたちは秀吉にだまされている」、「信長様がおまえ達みたいな身分の低い者に目をかけるはずがない」と触れて回る。工事人たちは秀吉を恨み、呪った。

 ところが、ほどなくすると秀吉に連れられて信長やって来て「ご苦労。早く修理を頼んだぞ」と声をかけた。このとき信長は秀吉に無理やり連れてこられて機嫌は悪かったのだが、工事人たちはそんなことは知らない。殿様に声を直接かけられたことで一気に盛り上がり、家に帰らず、そのまま工事にとりかかり、翌朝までに工事を完了させてしまったのだ。

 秀吉が行ったこと
・漠然とした集団を、10のプロジェクトチームに再編して明確な目標を持たせた。
・目的達成に対する評価法を示した。
・そして信長を利用してモチベーションを一気に上げさせた。

 秀吉はすでに、ホーソン工場での実験結果でもある
・人格の尊重
・自己表現

を、そのとき実現させたいたのだ。
 


 西郷隆盛は若い頃、藩主島津久光に嫌われて、琉球の島に左遷させられる。
 西郷は島を僻地といって馬鹿にした。また、島民も馬鹿にした。当然、島民も西郷に好意を持たなかった。

 しかし、島の生活を長く続けていると、島民のニーズに藩が全然応えていないことがわかってきた。左遷された組は、早く本社に戻してもらうために、嘘の報告ばかりしていたこともわかってきた。

 西郷はしっかり腰を据えることに決めた。しかし、島民も警戒した。
 西郷は左遷地を一日中歩き、島民のことを知ろうと一生懸命だった。

 私塾を開き、島の子ども達に学問を教えた。島の女性を妻に迎えた。

「西郷さんは島に永住するつもりだ」
 島民の西郷を見る目が少しずつ変わってきた。

 西郷は、島で「人間は、1人ずつ全部違うニーズを持っている」ことを知った。
 そして、一人ひとり違うニーズをどうまとめたらいいかも学んだ。

 その経験が、彼を後の大政治家に飛躍させたのである。
 



 織田信長は、足軽(現場労働者=ブルーカラー)に相当ひどい扱いをした。
 京都市民に悪さをしたり、盗みをはたらいた足軽を捕まえては、容赦なく殺したり、指を切り落としたりしていた。

 羽柴秀吉は、自身が下層出身なので、足軽の気持ちを十分知っていた。
 現場にいる人間は「愛情に飢えている」ということを知っていた。

 ある日、信長は家臣たちと酒宴を張った。
 そこで、槍(やり)は、長い方が有利か、短い方が有利かという議論になった。

 槍術指南の上島という男が、槍は短い方が有利だと主張した。
 秀吉は、長い方が得だといった。

 そこで、信長は、それぞれに50人ずつ足軽をつけるから、3日間訓練して、俺の前で試合をさせろと2人に言い渡した。

 槍術指南の上島は、以後、3日間、足軽一人ひとりに徹底的に槍術を教え込んだ。

 秀吉は、足軽達を自分の家に連れて帰り、妻のねねと2人で飲めや食えやの宴会を張った。

 上島側の足軽は、徹底的に鍛えられ、身体中あざだらけになった。
 秀吉側の足軽は、歓待続きで、ついに足軽達が秀吉に申し出た。

「俺たちは秀吉様が好きだけど、このままでは負けてしまう」

 現場人間の扱いの難しさを知っている秀吉の妙案は見事に的中した。
 足軽達は、自発的に訓練を始めたのだ。


 自分たちの意志で訓練した者たちと、いやいや鍛えられた者たちでは、すでに勝負は決したも同然であった。



 関ヶ原の戦いで徳川側につかなかった常陸国54万国の大名佐竹義宣は秋田に左遷されることになった。

 家康は、秋田の石高が20万石ぐらいしかないことを佐竹には知らせなかった。
 家康は意地が悪かった。

 それでも石高がかなり減ることは予想される。
 移住すべき家臣を極端にしぼった。
 義宣達は取る物も取りあえず 、秋田に直行した。

 義宣に、マンネリ部下はそのまま置いていこうという腹があった。

 数を減らしただけではない。
 家臣達に「家臣としての自己変革」をしてもらわなければならない。
 移住してきた重心たちに藩政を任せなかった。
 重用したのはすべて新人である。
 新人達は急いで城を建設し、城下町をつくり、検地、知行割り、就業規則まで作り上げた。

 義宣は知っていた。これからは武功者ではなく経営者の世の中になることを。
 しかし、義宣の旧臣たちは、新人家老らの命を狙い始めた。

 ところが、これら新人家老達は、実は大阪冬の陣の武功者でもあったのだ。
 新人家老達は、団結して、へなちょこ武士達を撃退した。
 義宣も不埒者たちを許さず粛正した。

 佐竹藩はこうして経営改革を乗り切っていったのだ。



 頭のいいリーダーは頭の良さを最後まで貫いた方がいい。
 変に、温情家ぶったり、「自分は頭が悪くて」なんてへつらっていたら、それを聞いている側には嫌みに映ったりする。


 石田三成は知将で知られた人間だ。
 その知将が、秀吉のマネをしたばかりに城攻めに失敗したことがある。

 関東で武蔵七名城のひとつと言われる忍城攻略の際、部下の士気が高まっているにもかかわらず、秀吉のマネをして、水攻めにすることにした。さっそく付近の農民を集めて土木工事に着手した。徴集ではなくお金で雇用したので喜んで農民達は参加した。

 そして徴集された農民のなかに、現在攻められている城中の兵士も農民に化けて工事に参加していることがわかったのだ。

 三成は、自分の城を攻める工事に敵軍が加わるなんて面白いから放っておけと部下に指示した。部下はそれでは工事の報酬としてお金や食糧が城中にも流れるので、ニセ者は捕まえて殺した方がいいと進言した。しかし三成は、秀吉の温情をまねして、そのくらい大目に見ろと取り合わなかった。

 工事が終わり、やがて大雨が降り、人口の堀の外と、城内は完全に遮断され、三成は喜んだ。

 ところが、思わぬ事態が三成軍を襲う。
 敵兵が交じって工事した箇所が崩壊して、水が三成軍を襲い水死者が続出し、総崩れしてしまったのである。

 知将は、やっぱり"知"でけじめをつけなければいけないのだ。





名将に学ぶ人間学

           童門冬二 三笠書房(2006.9.30)


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